本文へ移動

小城羊羹の歴史ー小城羊羹物語

小城羊羹を知ろう

小城という地域で、多くの先人の努力により育てられてきた長い歴史を持つ小城羊羹。
商標法上は小城羊羹協同組合が所有する団体商標で、小城羊羹協同組合は現在、組合員数23名で構成されています。
当サイトでは小城羊羹の歴史をはじめとするトピックスを紹介していきたいと思います。

このページについて

これまで、小城羊羹に関する歴史についてはまとまった情報が意外と少なく、また必ずしも客観的な事実が記載されているとは限らないことも多いと感じていました。
このため、このサイトでは、地域の郷土史家が調査されたもの等、信頼のおける情報を中心として、わかりやすくまとめてみました。
小城市の財産である「小城羊羹」について正しい歴史を伝えていきます。

参考文献は以下です。

  • 小城郡誌
  • 小城町史
  • 小城の歴史(小城郷土史研究会編)
  • 小城羊羹協同組合50周年記念誌

明治期.小城羊羹の発祥 - 小城羊羹の歴史

小城羊羹の元祖は森永惣吉氏です。

その創業は明治5年とも明治8年とも言われています。森永家は代々小城鍋島家の御用肴屋を勤めた家柄であったが、江戸末期か明治の初期に、大阪市虎屋の手代より羊羹つくりの秘伝を学び、本業の傍ら羊羹作りを始めていた。これが意外に好評を博したので、氏が29歳の時、明治8年に本格的に羊羹作りに進出、羊羹屋を創業したと考えられます。惣吉氏は大変研究熱心で白羊羹や茶羊羹を生み出し、たいそうな評判を得るようになりました。

昭和9年発行の「小城郡誌」によると

森永惣吉は日夜良品の製造に苦心を重ね、貯蔵に堪えしめ変質しにくい羊羹を工夫し、小城羊羹の名声は益々揚がる。明 治27年~28年の日清戦争に際しては、軍隊酒保用品として戦地に輸送すれど、変質、腐敗を起こすことなく、戦地よりの注文が激増するに至った。

とあります。

明治35年には、京都市において開催された全国菓子品評会に出品、入賞の栄誉を獲得し、その後各地の品評会に出品しても、常に名誉の栄冠を獲得し名声をはくしたと言われています。

小城羊羹の製造は明治35年以後に、横尾種吉、橋本庄平、山田亀吉、村岡安吉、柴田金三郎、篠原清次郎の6氏が相次いで新規参入し、それぞれ羊羹製造と販 路開拓に力を尽くしたと言われています。特に、明治37年~38年の日露戦争の勃発は、軍の酒保用品として、小城羊羹の更なる需要増大をもたらし、好況期 が続きました。そして明治40年代には、製造戸数は森永氏を加えて、10数戸に増えていました。

小城羊羹は当初「桜羊羹」とよばれていました。これは小城の桜岡公園との関係によります。明治8年に公園法が制定され、小城の桜岡一帯は全国でもいち早 く、佐賀県内では最初に「公園」に指定され、「桜岡公園」と呼ばれていました。その公園の入口で羊羹が売り出されたことから、桜羊羹と呼ばれるようになったのです。しかしながら一般の取引先、とくに町外や県外には「小城羊羹」の名の方が通っていたようです。明治27年~28年頃には小城羊羹の呼び名で広く取引されていたと言われています。

大正期. 商標裁判

大正期における小城羊羹の製造、販売は大正3年で製造戸数29戸、生産量27万斤、51、000円の生産額になっていた。大正3年8月に結成された「小城羊羹製造同業組合」は、大正9年には組合員数81名となり、広く「小城羊羹」の商標を使って販路を拡大していきました。

この頃、域外業者との間で「桜羊羹」と「小城羊羹」の二つの商標について裁判になっています。

大正8年「桜羊羹」商標登録無効審判事件―――これは明治8年以後、「桜羊羹」が小城地方で一般名称として使われて、それはあたかも羊羹に対する一種の通称ともなっていました。しかしながら県外の他の同業者が、「桜羊羹の名入り羊羹ラベル」を特許局に商標登録してしまったため、この登録を無効として審判請求を起こした。 この事件は「ラベルデザイン」としては登録が認められ、地元申請人の敗訴となった。しかしこのことは、小城の羊羹業者たちに商標と言うものがいかに大事かを認識させるきっかけとなりました。

 大正9年「小城羊羹」商標登録無効審判事件――― 翌大正9年、今度は「小城羊羹」の商標登録が久留米の羊羹製造業者によって行われ、驚いた小城の業者が無効審判の訴えを起こした事件である。無効の請求訴訟を起こしたのは、小城羊羹製造同業組合を代表した、横尾種吉、村岡安吉、橋本庄平の3氏であった。 請求人の主張は

  1. 私どもの住む小城町は既に数十年前から羊羹の産地であり、その製品は商標の如何にかかわらず「小城羊羹」として広く取引されてきた。しかも「小城羊羹」の呼称は「世人をして直ちに優良羊羹を連想せしめる程熟知されてきており・・・・」
  2. 小城産の羊羹は明治20年ごろまでは商標は桜羊羹、煉羊羹としていた。しかし、実際に市場では小城羊羹といわれてきたし、明治27年~28年頃から殆どの業者が小城羊羹の商標を使用し、今日に至っている。
  3. 小城羊羹製造同業組合(大正3年8月結成)は、大正9年現在81名の組合員をもって、小城羊羹の商標を使っており、広く慣用されてきた「小城羊羹」を、近年になって域外業者が商標登録するのは違法であり無効である。

と主張した。結局この審判は、請求人である小城町の業者の主張が全面的に認められ勝訴となった。

 この裁判によって初めて団体商標としての「小城羊羹」が確立され、小城羊羹の歴史と伝統が守られることになったのです。

昭和期-1. 戦時の小城羊羹

明治、大正、昭和にかけて、小城羊羹は小城町の特産品として広く全国にその名声をとどろかした。
国内ばかりでなく、海外にも日本人の行くところ 「小城羊羹」ありで、これは一つには軍隊の酒保用品として広く海外に渡ったこと、また海外在住の邦人の強い需要に応えたものであった。このように広く海外にまで出荷されていたのは、日持ちがする、劣化しにくい等の品質の良さが、羊羹製造技術として早くから確立されていたからと考えられます。
しかしながら戦局の悪化にともなって羊羹製造はきわめて困難な状況になっていきます。主要原料である砂糖、豆類が統制下におかれ、戦前、戦後の一時期は全く羊羹作りが出来ない状態が続きました。その後、昭和26年に砂糖が統制品からはずされ、各店で羊羹作りが本格的に再開されるようになりました。

昭和期-2. かつぎ屋さんによる販路開拓

昭和27年3月、あらためて小城羊羹協同組合が組合員22名で創立され、戦後の日本の復興、発展とともに羊羹製造業者も発展してまいりました。そして、昭和29年2月に「小城羊羹」が全国的にも珍しいことですが、特許庁に団体商標として登録され、現在に至っています。

 

戦後の小城羊羹の発展を考えるときに、忘れてならないのは「かつぎ屋さん」の存在である。昭和30年から昭和40年代にかけて、小城羊羹の販売はそ の多くをこの「かつぎ屋さん」に依存した。大きな風呂敷包みに羊羹を背負い、小城駅から列車に乗って、西は長崎、佐世保、南は熊本、東は博多、筑豊、小倉 あたりまでがその圏内であった。大半は海外引き揚げの婦人達で、日帰りの重労働ではあったが、手軽に現金収入が得られることから、これら婦人達の活躍と なった。

かつぎ屋さんは最盛期には100人を超えていたと思われる。このかつぎ屋さんによる販路開拓は、終戦後の小城羊羹の発展の礎を築いたという意味で も、忘れられない出来事である。しかしその後はモータリゼーションの発達、流通手段の多様化によって小城羊羹は販路を拡大し、昭和50年頃の小城羊羹の販 売額は約15億円に達するようになり、その後は小城町の主力産業に成長してまいりました。

株式会社 天山本舗
〒845-0001
佐賀県小城市小城町842-2
TEL.0952-72-3356
FAX.0952-72-3333
1.小城ようかん・水ようかん・フルーツゼリーの製造・販売
TOPへ戻る